2024年12月28日
あれから三ヶ月。母と二人きりの対話、改めて四十数年間のありがとうを
さて、令和6年、今年も残り4日をきりました。
私はお陰様で公私共に、ここ数年の中で
最も賑やかな年末を過ごしております。
今年は珍しく師走の後半から、忘年会続き。
サンバ生徒さん達との忘年会以外にも
有り難い事に、長年お世話になってる気心の
知れた友人や、今年から色々とまた再会したり
一緒に楽しむ機会が多かった十年来の仲間等、
普段から姉妹共々お世話になっている
何かとご縁ある人達との楽しい時間が続いております。
「コロナの時には楽しいイベントも、会食やお話する
機会も極端に無くなってしまったけれど、
またこうやって一緒に何か出来るって楽しいし、
嬉しい事だよね!」と喜び合いながら。
まだまだコロナに怯えていた2年前。
まさかこんなふうに、過去の出来事として振り返り
出来る日がくるなんて想像出来ていませんでしたから、
もちろんこの時期は、今でも色々と体調管理で
気が抜けない所はありますが、あの当時の状況と
比べたら恐怖や後ろめたさ無く、お互いの一年の
頑張りを振り返ったり労い合いながら親睦を深められる
時間は本当に貴重で有意義な時間であるなと感じます。
このように、表の出番が復活したりより活動し易くなった
世の中的な流れもありつつ、この例年に無く楽しい
スケジュールの詰まった年末は、寂しくないように?大好き
な”この人”の計らいでは無いかと思ってしまうぐらい。
9月28日の母とのお別れから今日で三ヶ月が
経ちました。もう?まだ?三ヶ月。
恐らく、私の人生後にも先にも、これだけ長くいつも
側に居て、沢山の愛情をかけて貰ったり、
多くの事を学ばせて貰った大きな存在の人とのお別れは
無いだろうなと思うので、
年末のこのタイミングになりましたが、記録しておきたい
と思う気持ちもありブログに残しておこうと思います。
近しい人との死別、「死」についてはつい先日も、
過去のブログ投稿でも綴っておりますが。
本当に人は「死」を迎えると直ぐに、身体全ての
機能が失われ見て、聞いて、触れて...といった
感覚が消滅し、コミュニケーションをとる事が
一切難しくなってしまうのでしょうか。
残された人達からすると、
特に「お別れが迫っている」と知らず、心の準備が
出来ていないうちにあっと言う間にその時が
訪れてしまうと、目が覚める事なくもうこの先
意思疎通も出来ず、
そのような目の前の光景に驚きや衝撃、ショックで
現実を中々受け入れられない事が普通だと思います。
しかし、自身の実体験からも
先日のブログでも綴りましたが、例え物理的に
動かなくなり、その姿とお別れの時が来ても、
生前互いに深く思いやっている関係性で
絆が深い人達との繋がりは、けして失われず
どこかで故人の温かみを感じながら
また少しずつ現実と向き合い、前を向いて
歩んでいけるものだと信じています。
私の場合は、今冷静に振り返ると
母が亡くなる半年前ぐらいからそのサインは
少しずつ出ていたんだと思います。
ここから先は、激動の半年間の出来事を自身の
記録用にも綴っておこうと思いますので、
かなり長く個人的な話になります。ご了承下さい。
一年程前から持病の進行の影響かと思うような
これまでに無かった事を感じるようになり、
ただ、自身も知識としては入れていた事なので
さて、またここからどのようにケアフォローして
いけば良いかと頭の片隅に置きながら様子を
見守っていました。
しかし、その時点でまさか約一年後に寿命が来る
なんて事は全く頭には無く。
本当に顕著だったのは半年前の今年4月頃から、
一見、持病とは関係が無さそうな身体の部分に
支障が出て、その後もこれまでに無く精神(認知)状態が
不安定になる事が度々。
しかし一番の問題や心配が、昨年からの体重減少と
5月頃から急に固形物を噛んだり、飲み込めなくなってきた
嚥下機能の低下でした。
そこから私達も表の出番が多くなる時期に、
6月と8月、1~2週間程度の緊急入退院が二度ありました。
今でも覚えているのが、
ちょうど「うたの日コンサート」前日のリハ前に対応した
出来事。
うたの日コンサートの本番に当たる日に退院出来ないかと、
ステージ本番2日前の午後に病院から打診があり、
流石に当日は難しいと、急遽前日のリハーサル前に退院する事に。
(本人も短い入院ながら、お見舞いに行く度に病院はもう嫌だと
辛そうな表情をして泣いていましたし医師がOKであれば
家族としても早く退院させてあげたかった..)
急遽、相談していた翌日の午前中に退院する事となった為
(後、18時間後に退院。。。)
その日の私は、ルーティンの仕事もこなしつつ、
(その日に限って朝から読谷の日、、、(汗))
隙間時間で、仕事の件で2ヶ所と電話連絡しながら、
更に病院と施設と、、、、
もう身体も脳みそも息切れしそうで追いつかない、
足りない状態で齷齪と時間に追われながら
上手く段取りをつけようと必死に動いていました。
ただ、その少し大変だと感じる状況の後
「頑張って良かった」と思える事も度々で、
母の、家族が迎えに来た時ホッとしたような
嬉しそうな表情にこちらも嬉しくなりましたし、
本人自身、出来る事が徐々に減っていって
不安や治療の苦痛がある中でも、
私達の頑張りに応えるかのような姿や表情を見せて
くれていたので、その事に私自身もとても
励まされていました。
二度目の入院では流石に、今後もこのような
急遽調子が悪くなり、救急搬送される事が
何度かあるかもしれない、
延命や訪問診療等についても考えていかなければ
いけない、この先近いうちにベッドで過ごす事中心
の生活となった事も想定して、これまで以上の医療支援
について、ちょうど施設の方と相談したり情報収集
しながら進めている最中でした。
まだ会話出来る、意思疎通出来る
母の元気な姿に最後触れる事が出来たのは
私達が浅草サンバカーニバルから帰って翌週の週末。
9月21日の母の78歳の誕生日の時。
大好きな孫(姪っ子)と、姉と3人でいつものように
施設の面会室でささやかながら誕生日会。
その時の母は正直かなり痩せて頬もこけてしまい
今改めてその時の動画を見ると
「死期が近い」事を告げるような表情や仕草が
出ていたと思うのですが、それでも朝には起きて
車椅子に座り、普段と変わらないタイムスケジュールで
施設の方々と生活している様子でしたし、
何より、自身の誕生日を嬉しそうな表情で過ごしていました。
「今日で78歳よ、良く頑張っているよ。
また一つ年を重ねる事が出来て一緒に過ごせて嬉しいね」
と、話かけると「うん、うん。ありがとね」と、
頷きながら、かすれ声で声を出し難そうにしながらも
しっかり応えていました。
孫の歌うハッピーバースデーの歌に
手拍子するような仕草もありましたし、
私もとにかく、元気に少しでもまた大好きな食事も
もう少しとりやすくなってくれたら良いなと
とにかく希望に気持ちを向けていたので、
やはり最後が、死期が近い事、
その事を見逃していたんだと思います。
そして、9月28日(土)の未明、突如ケータイが鳴り
どうやら一回目の呼び出し音で中々目が覚めなかったようで
また直ぐかけて下さった二度目の時に私は寝ぼけ眼で
施設からの電話と気付き、慌ててとったのを覚えています。
今回も急遽、治療や医療行為が必要で
呼び出されたのかと思ってみたら、、、
この日、母は天国へと旅立ちました。
母が亡くなって後、伺った話では
平日のみ勤務の施設のスタッフさんや看護師さんも
また週明け、いつも通り母と顔を合わせる事になる
だろうと、普段と変わりなく「ようこさん、また来週ね!」と、
本人も笑顔でお別れしたそうな。
そしてもう随分前ですが、父が亡くなった時、私は
大阪でまだ学生として生活していた時で、姉は偶々
就職活動で沖縄に帰省しているタイミングでした。
母と二人、父の最期を看取る事が出来たらしいの
ですが、私は間に合わず。
なので、母の時は本人が辛く感じる時や、最期の時は
出来るだけ側にいてあげたいなと思っていたのです。
ところが今回、私達家族が到着した時には既に母は
息絶えており、結果、看取る事は出来ませんでした。
対面して直ぐは、やはり目を閉じて反応の無い姿に
ショックで驚きましたし、
目の前の母がただ眠っているだけで、今にも起きて
きそうな温もりもあり、呼びかけたら目を覚まして
また会話も出来るのではないかと、そんな気さえして
まだ完全に受け入れられない自分と、
でも、お医者さんの言う事を事実として認識しようと
努力している自分がいて、
本当に全うした。そうなのであれば本人には家族から
真っ先に「良く頑張ったね。お疲れ様、ありがとう」と
伝えたい思いがあり、まだ呆然と複雑な心境の中
姉と声をかけたりその時間を過ごしていました。
ただやはり一点、看取る事が出来なかった後悔
というよりも、これまでも持病や加齢もあり、
眠れない日が多かったり、夜は不安を感じやすい
時間帯で辛い事も多かったと思うので、
最期はどのような感じだったのだろうと。
最期の時間が本人にとって少しでも穏やかなもので
あったら...と、そこだけが気になっていました。
母が亡くなって2日後、
ちょうど月末という事もありこちらも急な対応で
バタバタしてしましましたが、施設に退去の手続きや
片付けをしながら、今回のご対応についてお礼を
ご挨拶へと姉と伺いました。
今でも忘れません、あれだけ普段笑顔で接して
下さっているにこやかな皆さんが、こちらが思う以上
にとても神妙な面持ちで下を向かれて、とても寂しそう
に、どこか申し訳無さそうに私達を出迎えられたので、
「あぁ、こんなに最後まで色々とお世話をかけて
しまったのに...皆さん本当に母に愛情を傾けて下さり、
心からのコミュニケーションをして下さったのだな、
こちらで最期まで生活出来て母も満足や感謝を
しているだろうな」と。
そして、私達の方からもこれまでのお礼や結果
残念でしたが、母は皆さんと出会えて温かいサポートが
受けられて満足して旅だったんだと思いますと
挨拶させてもらいました。
母が毎度自慢していたそうで、娘二人が
「宮城姉妹」という名前で歌・踊りをやっている事を
母に関わって下さっているスタッフの殆どの方が
知って下さっていますし、Youtubeも毎回楽しみに
母や皆さんで見て下さっていました。
母が痩せて元気が無くなってきた6月には
施設で宮城姉妹LIVEも出来たので、
お互い笑い泣きで。
やはり出来て良かったですとその時の思い出話を
したり「私もまた来週ね!」と声をかけたぐらい元気な
様子だったので、驚いてしまい悲しいですし寂しいですと
お話して下さりました。
これはまた、最後クリーニングに出していた荷物を受け取る為、
葬儀や火葬を終えて10日後に訪ねた時ですが
ちょうど、最期の夜に夜勤でみて下さったという
男性スタッフの方がいらしたので、色々と驚かせてしまい
突然の対応など、ありがとうございましたと
ご挨拶させてもらいました。
と、実はこれは母が亡くなって後教えてくれた事で、
私に頼んだ事だったからです。
多くの方が関わり、楽しみされている
イベントがこの先続く、まさにイベント準備も
スタートしている時期の出来事でしたので、
心配かけないようにと姉と決めて、
仕事を、当日母と悲しみの対面をした数時間後の
レッスンを含め、葬儀の日以外は休まず、
穴をあけず姉妹で支え合い、家族の有り難い協力
も得て必死に駆け抜けた最初の一週間でしたが、
所々で亡くなったはずの母の気配、温かみを感じる
出来事がありまして、
亡くなった翌日に姉妹で頑張った歌の仕事も
恐らく母は現場に一緒にいて喜んでみていたでしょうし
(姉と母の為にも頑張ろうと言い合いました)
嬉しかったのか?まだ側にいたかったのか?
ステージの後、葬儀屋さんに全てお任せし
安置していた母の元へ手を合わせ
帰宅した夜、姉と「お疲れね!」と別れようとした時
気付けば私と姉の周りをヒラヒラ飛ぶ蝶が
思わず姉も「これ洋子さん(母) だね~」というぐらい
嬉しそうに周りを飛んでいる。
普段こんな所に夜に蝶が出てくる事は無いので
あぁ、やはり母かなと。
そして、寝る支度をして気になり深夜玄関から
表へ出てみると玄関ドアの上の壁にピタッと止まる
先程の蝶々ちゃん、どうやら就寝している模様。
可愛いな、やはり母だなと愛らしい気持ちになりました。
そして、私が一つ気になっていた事も、
結局母が全て私に教えてくれました。
施設から引き取った母の遺品を取りあえず
実家で保管し整理しようと触れていたら、
頭の中に数字が浮かんできまして。恐らくその時間に亡くなった(心停止した)のかと、そして、夜勤で入って下さった方がその日も母の様子を気にかけて丁寧に見回りして下さったようで、
3時台の見回りの時に手を握ってくれて(手をとり
脈をとってみて下さった様子)その人の手のぬくも
りに安心して母は徐々に気持ちも身体も楽に、
旅だったようでした。
あのいつもの母の雰囲気が私の中に入ってきて
「そうそう、あの男の子 驚かせちゃったの。
ごめんね、ありがとうと伝えて」と、
伝えてきたので(笑)ちょっと頭おかしい怪しい
娘と思われたかもしれませんが、母が希望する
通り、直接お礼が伝えられて良かったです。
ちなみに今の所、寂しくて偶に写真に話しかけ
ながら自宅で過ごす事があっても、
一切出てくるような感覚は無く(笑)
姉と似ていて家族以外の人前ではとてもサービス
精神旺盛で色々と相手を気にかけ言葉をかける人だったので、その点もとても母らしいなと。
そして、所長さんもいらっしゃる前で
その日、最期の夜の母の様子をそちら夜勤スタッフの
方が教えて下さったのですが、
ここ数日もやはり様々な衰えもあり就寝するまで
かなり落ち着かない、本人にとって辛い症状が
頻繁に出ていたり、まとまった睡眠がとれていない
ような様子もあったようなのですが、
その日に限って、22時のお薬の後、比較的穏やかで
深夜0~1時頃までは起きていた様子ですが、
2時頃からは睡眠に入れているので、恐らく本人
苦しまず、眠るような形で逝ったのでは無いかと。
その話が聞けただけでもう私としては、
母の事で何も思い残す事は無く、
とてもほっとした、穏やかな気持ちになれ
嬉しかったですし、
またその場でも涙してしまったのですが
所長さんも目をウルウルさせながら
一緒に話を聞いて下さったので、本当にこちら
の施設で最期まで生活出来て、その中で
恐らく本人が望むような自然な流れでの
旅立ちだったので(入院も延命も嫌そうにしていました)
良かったなと感謝の気持ちでいっぱいでした。
娘としては2年前の施設探しから
母の事で色々と調べて、考えて、決断する度に
本当に心がいたくて。。。
それでも徐々に変化する現実を受け入れ、
そこに対応していかなければと心を鬼にして
色々と向き合ってきましたが、今振り返ると
「そういう事だったのね。この流れで全て良かった
のかも」と、自身の中で全て納得が出来て、
後悔は何一つありませんでした。
約6年間、在宅介護でお互い苦しい時間も
多かったはずなのに、いざ終わってしまうと
本当に楽しかった良い思い出ばかりが
出てくるんです。母の事が大好きでしたし、
年齢と共に認知機能の衰えが出始めていても
どういうわけか?私との会話では結構まともに
受け答えしてくれて、私の仕事上での辛い話や
心配事もついつい母に話してしまうと、
とても力強い、真っ当なこたえが返ってくる事もあり、
「いつまでも、どんな状況になっても
母は母。母の愛は偉大なのだな」と、やはり私の
一番の理解者であり、心の支えでもありました。
だからこそすぐさま簡単には癒えない
思い出すとつい涙してしまう事も多いのですが…
そうやって、母だけで無く私としても最後の半年間の中で
「今日は何だか久しぶりにゆっくり話が出来て楽しかった」
と、一人で居室を訪ねた時帰り際に言うと、
「うん、お母さんも」と、その時既にスタッフの方々から
認知の影響なのか、気分良く過ごせていなさそうな
精神不安定でネガティブな発言も多いと聞いていましたが、
あの以前の、とてもにこやかで穏やかな母の
表情をみる事も素敵な会話も出来たので、それは
施設にお世話になっているからこその出来事で
母娘の良い距離感がそうさせてくれたのだろうなと、
降り返って見た時に、本当に良かったなと、
感謝が尽きません。
改めて、母へ
本当に四十年あまり、色々と苦労も多く大変な中でも
笑顔と明るい気持ちで私達を産み育ててくれて
本当にありがとう。
多分、今は父と和解して(笑)
また父に会いたいという良い気持ちで、
満足して天国へ旅立ったと思うので
これからは二人仲良く、空の上から孫や娘達の
奮闘ぶりや楽しい歌&ダンスを一緒に楽しんでみていてね!
ちょうど年末の時期に、三ヶ月を迎えて
私の中でも良い締め括りのタイミングとなりそうです。
そして、年末年始。
皆さんも帰省されたり実家へ顔を出したり
親、家族。一年に一度でも会いたいと大切に
思う人達と過ごす機会も多いと思います。
身内や近しい存在であればある程、
「また次もあるはずだから」と、先延ばしにしがちですが
「せっかくの機会だから、次は無いかもしれないから」
の気持ちで、会いたい人達と大切な一時を過ごす
お正月休みぜひされてみて下さい。
自身の記録用にもかなり長くなりましたが、
年の瀬も迫り、寒さも増してきたので体調良く
お仕事やその他の事にも追われる忙しい時期でも
あると思いますが、もし機会が作れそうであれば
大切な方々とどうぞ楽しい一時を。
サンバ生徒さん達との忘年会以外にも
有り難い事に、長年お世話になってる気心の
知れた友人や、今年から色々とまた再会したり
一緒に楽しむ機会が多かった十年来の仲間等、
普段から姉妹共々お世話になっている
何かとご縁ある人達との楽しい時間が続いております。
「コロナの時には楽しいイベントも、会食やお話する
機会も極端に無くなってしまったけれど、
またこうやって一緒に何か出来るって楽しいし、
嬉しい事だよね!」と喜び合いながら。
まだまだコロナに怯えていた2年前。
まさかこんなふうに、過去の出来事として振り返り
出来る日がくるなんて想像出来ていませんでしたから、
もちろんこの時期は、今でも色々と体調管理で
気が抜けない所はありますが、あの当時の状況と
比べたら恐怖や後ろめたさ無く、お互いの一年の
頑張りを振り返ったり労い合いながら親睦を深められる
時間は本当に貴重で有意義な時間であるなと感じます。
このように、表の出番が復活したりより活動し易くなった
世の中的な流れもありつつ、この例年に無く楽しい
スケジュールの詰まった年末は、寂しくないように?大好き
な”この人”の計らいでは無いかと思ってしまうぐらい。
9月28日の母とのお別れから今日で三ヶ月が
経ちました。もう?まだ?三ヶ月。
恐らく、私の人生後にも先にも、これだけ長くいつも
側に居て、沢山の愛情をかけて貰ったり、
多くの事を学ばせて貰った大きな存在の人とのお別れは
無いだろうなと思うので、
年末のこのタイミングになりましたが、記録しておきたい
と思う気持ちもありブログに残しておこうと思います。
近しい人との死別、「死」についてはつい先日も、
過去のブログ投稿でも綴っておりますが。
2024/12/22
2020/06/07
2020/09/22
2020/09/28
本当に人は「死」を迎えると直ぐに、身体全ての
機能が失われ見て、聞いて、触れて...といった
感覚が消滅し、コミュニケーションをとる事が
一切難しくなってしまうのでしょうか。
残された人達からすると、
特に「お別れが迫っている」と知らず、心の準備が
出来ていないうちにあっと言う間にその時が
訪れてしまうと、目が覚める事なくもうこの先
意思疎通も出来ず、
そのような目の前の光景に驚きや衝撃、ショックで
現実を中々受け入れられない事が普通だと思います。
しかし、自身の実体験からも
先日のブログでも綴りましたが、例え物理的に
動かなくなり、その姿とお別れの時が来ても、
生前互いに深く思いやっている関係性で
絆が深い人達との繋がりは、けして失われず
どこかで故人の温かみを感じながら
また少しずつ現実と向き合い、前を向いて
歩んでいけるものだと信じています。
私の場合は、今冷静に振り返ると
母が亡くなる半年前ぐらいからそのサインは
少しずつ出ていたんだと思います。
ここから先は、激動の半年間の出来事を自身の
記録用にも綴っておこうと思いますので、
かなり長く個人的な話になります。ご了承下さい。
一年程前から持病の進行の影響かと思うような
これまでに無かった事を感じるようになり、
ただ、自身も知識としては入れていた事なので
さて、またここからどのようにケアフォローして
いけば良いかと頭の片隅に置きながら様子を
見守っていました。
しかし、その時点でまさか約一年後に寿命が来る
なんて事は全く頭には無く。
本当に顕著だったのは半年前の今年4月頃から、
一見、持病とは関係が無さそうな身体の部分に
支障が出て、その後もこれまでに無く精神(認知)状態が
不安定になる事が度々。
しかし一番の問題や心配が、昨年からの体重減少と
5月頃から急に固形物を噛んだり、飲み込めなくなってきた
嚥下機能の低下でした。
そこから私達も表の出番が多くなる時期に、
6月と8月、1~2週間程度の緊急入退院が二度ありました。
今でも覚えているのが、
ちょうど「うたの日コンサート」前日のリハ前に対応した
出来事。
うたの日コンサートの本番に当たる日に退院出来ないかと、
ステージ本番2日前の午後に病院から打診があり、
流石に当日は難しいと、急遽前日のリハーサル前に退院する事に。
(本人も短い入院ながら、お見舞いに行く度に病院はもう嫌だと
辛そうな表情をして泣いていましたし医師がOKであれば
家族としても早く退院させてあげたかった..)
急遽、相談していた翌日の午前中に退院する事となった為
(後、18時間後に退院。。。)
その日の私は、ルーティンの仕事もこなしつつ、
(その日に限って朝から読谷の日、、、(汗))
隙間時間で、仕事の件で2ヶ所と電話連絡しながら、
更に病院と施設と、、、、
もう身体も脳みそも息切れしそうで追いつかない、
足りない状態で齷齪と時間に追われながら
上手く段取りをつけようと必死に動いていました。
ただ、その少し大変だと感じる状況の後
「頑張って良かった」と思える事も度々で、
母の、家族が迎えに来た時ホッとしたような
嬉しそうな表情にこちらも嬉しくなりましたし、
本人自身、出来る事が徐々に減っていって
不安や治療の苦痛がある中でも、
私達の頑張りに応えるかのような姿や表情を見せて
くれていたので、その事に私自身もとても
励まされていました。
二度目の入院では流石に、今後もこのような
急遽調子が悪くなり、救急搬送される事が
何度かあるかもしれない、
延命や訪問診療等についても考えていかなければ
いけない、この先近いうちにベッドで過ごす事中心
の生活となった事も想定して、これまで以上の医療支援
について、ちょうど施設の方と相談したり情報収集
しながら進めている最中でした。
まだ会話出来る、意思疎通出来る
母の元気な姿に最後触れる事が出来たのは
私達が浅草サンバカーニバルから帰って翌週の週末。
9月21日の母の78歳の誕生日の時。
大好きな孫(姪っ子)と、姉と3人でいつものように
施設の面会室でささやかながら誕生日会。
その時の母は正直かなり痩せて頬もこけてしまい
今改めてその時の動画を見ると
「死期が近い」事を告げるような表情や仕草が
出ていたと思うのですが、それでも朝には起きて
車椅子に座り、普段と変わらないタイムスケジュールで
施設の方々と生活している様子でしたし、
何より、自身の誕生日を嬉しそうな表情で過ごしていました。
「今日で78歳よ、良く頑張っているよ。
また一つ年を重ねる事が出来て一緒に過ごせて嬉しいね」
と、話かけると「うん、うん。ありがとね」と、
頷きながら、かすれ声で声を出し難そうにしながらも
しっかり応えていました。
孫の歌うハッピーバースデーの歌に
手拍子するような仕草もありましたし、
私もとにかく、元気に少しでもまた大好きな食事も
もう少しとりやすくなってくれたら良いなと
とにかく希望に気持ちを向けていたので、
やはり最後が、死期が近い事、
その事を見逃していたんだと思います。
そして、9月28日(土)の未明、突如ケータイが鳴り
どうやら一回目の呼び出し音で中々目が覚めなかったようで
また直ぐかけて下さった二度目の時に私は寝ぼけ眼で
施設からの電話と気付き、慌ててとったのを覚えています。
今回も急遽、治療や医療行為が必要で
呼び出されたのかと思ってみたら、、、
この日、母は天国へと旅立ちました。
母が亡くなって後、伺った話では
平日のみ勤務の施設のスタッフさんや看護師さんも
また週明け、いつも通り母と顔を合わせる事になる
だろうと、普段と変わりなく「ようこさん、また来週ね!」と、
本人も笑顔でお別れしたそうな。
そしてもう随分前ですが、父が亡くなった時、私は
大阪でまだ学生として生活していた時で、姉は偶々
就職活動で沖縄に帰省しているタイミングでした。
母と二人、父の最期を看取る事が出来たらしいの
ですが、私は間に合わず。
なので、母の時は本人が辛く感じる時や、最期の時は
出来るだけ側にいてあげたいなと思っていたのです。
ところが今回、私達家族が到着した時には既に母は
息絶えており、結果、看取る事は出来ませんでした。
対面して直ぐは、やはり目を閉じて反応の無い姿に
ショックで驚きましたし、
目の前の母がただ眠っているだけで、今にも起きて
きそうな温もりもあり、呼びかけたら目を覚まして
また会話も出来るのではないかと、そんな気さえして
まだ完全に受け入れられない自分と、
でも、お医者さんの言う事を事実として認識しようと
努力している自分がいて、
本当に全うした。そうなのであれば本人には家族から
真っ先に「良く頑張ったね。お疲れ様、ありがとう」と
伝えたい思いがあり、まだ呆然と複雑な心境の中
姉と声をかけたりその時間を過ごしていました。
ただやはり一点、看取る事が出来なかった後悔
というよりも、これまでも持病や加齢もあり、
眠れない日が多かったり、夜は不安を感じやすい
時間帯で辛い事も多かったと思うので、
最期はどのような感じだったのだろうと。
最期の時間が本人にとって少しでも穏やかなもので
あったら...と、そこだけが気になっていました。
母が亡くなって2日後、
ちょうど月末という事もありこちらも急な対応で
バタバタしてしましましたが、施設に退去の手続きや
片付けをしながら、今回のご対応についてお礼を
ご挨拶へと姉と伺いました。
今でも忘れません、あれだけ普段笑顔で接して
下さっているにこやかな皆さんが、こちらが思う以上
にとても神妙な面持ちで下を向かれて、とても寂しそう
に、どこか申し訳無さそうに私達を出迎えられたので、
「あぁ、こんなに最後まで色々とお世話をかけて
しまったのに...皆さん本当に母に愛情を傾けて下さり、
心からのコミュニケーションをして下さったのだな、
こちらで最期まで生活出来て母も満足や感謝を
しているだろうな」と。
そして、私達の方からもこれまでのお礼や結果
残念でしたが、母は皆さんと出会えて温かいサポートが
受けられて満足して旅だったんだと思いますと
挨拶させてもらいました。
母が毎度自慢していたそうで、娘二人が
「宮城姉妹」という名前で歌・踊りをやっている事を
母に関わって下さっているスタッフの殆どの方が
知って下さっていますし、Youtubeも毎回楽しみに
母や皆さんで見て下さっていました。
母が痩せて元気が無くなってきた6月には
施設で宮城姉妹LIVEも出来たので、
お互い笑い泣きで。
やはり出来て良かったですとその時の思い出話を
したり「私もまた来週ね!」と声をかけたぐらい元気な
様子だったので、驚いてしまい悲しいですし寂しいですと
お話して下さりました。
これはまた、最後クリーニングに出していた荷物を受け取る為、
葬儀や火葬を終えて10日後に訪ねた時ですが
ちょうど、最期の夜に夜勤でみて下さったという
男性スタッフの方がいらしたので、色々と驚かせてしまい
突然の対応など、ありがとうございましたと
ご挨拶させてもらいました。
と、実はこれは母が亡くなって後教えてくれた事で、
私に頼んだ事だったからです。
多くの方が関わり、楽しみされている
イベントがこの先続く、まさにイベント準備も
スタートしている時期の出来事でしたので、
心配かけないようにと姉と決めて、
仕事を、当日母と悲しみの対面をした数時間後の
レッスンを含め、葬儀の日以外は休まず、
穴をあけず姉妹で支え合い、家族の有り難い協力
も得て必死に駆け抜けた最初の一週間でしたが、
所々で亡くなったはずの母の気配、温かみを感じる
出来事がありまして、
亡くなった翌日に姉妹で頑張った歌の仕事も
恐らく母は現場に一緒にいて喜んでみていたでしょうし
(姉と母の為にも頑張ろうと言い合いました)
嬉しかったのか?まだ側にいたかったのか?
ステージの後、葬儀屋さんに全てお任せし
安置していた母の元へ手を合わせ
帰宅した夜、姉と「お疲れね!」と別れようとした時
気付けば私と姉の周りをヒラヒラ飛ぶ蝶が
思わず姉も「これ洋子さん(母) だね~」というぐらい
嬉しそうに周りを飛んでいる。
普段こんな所に夜に蝶が出てくる事は無いので
あぁ、やはり母かなと。
そして、寝る支度をして気になり深夜玄関から
表へ出てみると玄関ドアの上の壁にピタッと止まる
先程の蝶々ちゃん、どうやら就寝している模様。
可愛いな、やはり母だなと愛らしい気持ちになりました。
そして、私が一つ気になっていた事も、
結局母が全て私に教えてくれました。
施設から引き取った母の遺品を取りあえず
実家で保管し整理しようと触れていたら、
頭の中に数字が浮かんできまして。恐らくその時間に亡くなった(心停止した)のかと、そして、夜勤で入って下さった方がその日も母の様子を気にかけて丁寧に見回りして下さったようで、
3時台の見回りの時に手を握ってくれて(手をとり
脈をとってみて下さった様子)その人の手のぬくも
りに安心して母は徐々に気持ちも身体も楽に、
旅だったようでした。
あのいつもの母の雰囲気が私の中に入ってきて
「そうそう、あの男の子 驚かせちゃったの。
ごめんね、ありがとうと伝えて」と、
伝えてきたので(笑)ちょっと頭おかしい怪しい
娘と思われたかもしれませんが、母が希望する
通り、直接お礼が伝えられて良かったです。
ちなみに今の所、寂しくて偶に写真に話しかけ
ながら自宅で過ごす事があっても、
一切出てくるような感覚は無く(笑)
姉と似ていて家族以外の人前ではとてもサービス
精神旺盛で色々と相手を気にかけ言葉をかける人だったので、その点もとても母らしいなと。
そして、所長さんもいらっしゃる前で
その日、最期の夜の母の様子をそちら夜勤スタッフの
方が教えて下さったのですが、
ここ数日もやはり様々な衰えもあり就寝するまで
かなり落ち着かない、本人にとって辛い症状が
頻繁に出ていたり、まとまった睡眠がとれていない
ような様子もあったようなのですが、
その日に限って、22時のお薬の後、比較的穏やかで
深夜0~1時頃までは起きていた様子ですが、
2時頃からは睡眠に入れているので、恐らく本人
苦しまず、眠るような形で逝ったのでは無いかと。
その話が聞けただけでもう私としては、
母の事で何も思い残す事は無く、
とてもほっとした、穏やかな気持ちになれ
嬉しかったですし、
またその場でも涙してしまったのですが
所長さんも目をウルウルさせながら
一緒に話を聞いて下さったので、本当にこちら
の施設で最期まで生活出来て、その中で
恐らく本人が望むような自然な流れでの
旅立ちだったので(入院も延命も嫌そうにしていました)
良かったなと感謝の気持ちでいっぱいでした。
娘としては2年前の施設探しから
母の事で色々と調べて、考えて、決断する度に
本当に心がいたくて。。。
それでも徐々に変化する現実を受け入れ、
そこに対応していかなければと心を鬼にして
色々と向き合ってきましたが、今振り返ると
「そういう事だったのね。この流れで全て良かった
のかも」と、自身の中で全て納得が出来て、
後悔は何一つありませんでした。
約6年間、在宅介護でお互い苦しい時間も
多かったはずなのに、いざ終わってしまうと
本当に楽しかった良い思い出ばかりが
出てくるんです。母の事が大好きでしたし、
年齢と共に認知機能の衰えが出始めていても
どういうわけか?私との会話では結構まともに
受け答えしてくれて、私の仕事上での辛い話や
心配事もついつい母に話してしまうと、
とても力強い、真っ当なこたえが返ってくる事もあり、
「いつまでも、どんな状況になっても
母は母。母の愛は偉大なのだな」と、やはり私の
一番の理解者であり、心の支えでもありました。
だからこそすぐさま簡単には癒えない
思い出すとつい涙してしまう事も多いのですが…
そうやって、母だけで無く私としても最後の半年間の中で
「今日は何だか久しぶりにゆっくり話が出来て楽しかった」
と、一人で居室を訪ねた時帰り際に言うと、
「うん、お母さんも」と、その時既にスタッフの方々から
認知の影響なのか、気分良く過ごせていなさそうな
精神不安定でネガティブな発言も多いと聞いていましたが、
あの以前の、とてもにこやかで穏やかな母の
表情をみる事も素敵な会話も出来たので、それは
施設にお世話になっているからこその出来事で
母娘の良い距離感がそうさせてくれたのだろうなと、
降り返って見た時に、本当に良かったなと、
感謝が尽きません。
改めて、母へ
本当に四十年あまり、色々と苦労も多く大変な中でも
笑顔と明るい気持ちで私達を産み育ててくれて
本当にありがとう。
多分、今は父と和解して(笑)
また父に会いたいという良い気持ちで、
満足して天国へ旅立ったと思うので
これからは二人仲良く、空の上から孫や娘達の
奮闘ぶりや楽しい歌&ダンスを一緒に楽しんでみていてね!
ちょうど年末の時期に、三ヶ月を迎えて
私の中でも良い締め括りのタイミングとなりそうです。
そして、年末年始。
皆さんも帰省されたり実家へ顔を出したり
親、家族。一年に一度でも会いたいと大切に
思う人達と過ごす機会も多いと思います。
身内や近しい存在であればある程、
「また次もあるはずだから」と、先延ばしにしがちですが
「せっかくの機会だから、次は無いかもしれないから」
の気持ちで、会いたい人達と大切な一時を過ごす
お正月休みぜひされてみて下さい。
自身の記録用にもかなり長くなりましたが、
年の瀬も迫り、寒さも増してきたので体調良く
お仕事やその他の事にも追われる忙しい時期でも
あると思いますが、もし機会が作れそうであれば
大切な方々とどうぞ楽しい一時を。
Posted by yayoi.M at 17:50
│日々のこと